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執筆者の写真SATO Takayuki

【偽装と現実】バーチャルの果て

べつにここ数年世間を賑わせている政治や行政のことを言いたいわけではない。 もっと個人的なことだ。 「写真写りがいい」とか悪いとか言う。一般的に。 つまり、実際よりも良く写る、悪く写るという事だ。 新聞や雑誌など、あるいは一般人にとってもSNSなどに自分の写真を載っける時にはなるべく写りがいいものを選ぶ。お見合い写真などもそうだろう。 では、「良い」「悪い」という基準自体はどういうことだろう。 たとえば、プロフィール写真には顔のシワが見えづらい方がいいし、なぜか色白でときには赤ん坊のようなピンク色の肌が好まれたりする。 スマホのカメラアプリにはそういうものがたくさんあって、もはやそれがデフォルトになりつつある。 まあ、昔からあるお見合い写真だってモノクロ時代は鉛筆で修正したものだし、レンズに紗を掛けて「不都合な細部」を隠し、偽装することが多かった。 その結果、実際に実物に接してみたらどうだろう。

「あれっ、写真よりも肌も汚いしホクロだっていっぱいあるじゃん。それに老けてるし」 と、目の前の現実に失望するわけである。 だから僕は、プロフィール写真はなるべく汚くカッコ悪く写っているものの方がいいと思っている。いつか実物を晒さなければならないとするならば──。 話は少し替わるが、僕自身も含めて知り合いには電話が嫌いな人が多い。メッセージやメールでは機嫌よくソツなく応じるが、電話すると たちまち狼狽したりする。 曰く「なにを話していいのかわからない」「どう話していいのかわからない」。 「とっさのことなので困る」と。 たしかに自身の都合や状況によっては困ることもあるだろうが、それも含めての、もっと言えば相手の状況を忖度しての会話というものである。 実際話せば、声の調子から体調もわかるし、落ち着かないようだな、とか状況もわかる。 つまり伝えたい内容や聞きたい事柄以外の情報が大事であるのだ。だから、「声を聞きたくなったから電話した」というのは、正当なことであると思う。 何故にニンゲンという生き物は、ミテクレを気にし実物以上に自分を良く見せようとするのだろうか。それも日々移り変わる価値基準に従って。 髪型や眉の形や着ているもので写真の年代はだいたいわかるものだが、動物の世界でそういう話は聞いたことがない。江戸時代の猿だろうが昭和の猫だろうが今の姿と変わらない。 イヌの場合は昔は居なかった犬種というものがあるだろうが、それはイレギュラーで本来のものではない。某国には美容整形で「作り物」になってしまった人がたくさんいるらしいが…。 なにが言いたいかというと、本来の姿で勝負すべし、ということ。 裏も表もない(いや、あってもよい。それもひっくるめて)全き姿がその人の魅力であり個性であるはずだ。 いうまでもないことだが、ニンゲンはそういった裏表が複雑にあるところが面白い。他の動物よりも際立っている。 だから、ニンゲンはトータルで面白い。とは言っても全員ひとりひとりが魅力的だとは思わない。何故ならば、それは僕の価値基準によるものであって美意識は人それぞれに違うものだろうから。 誰の何処に「美」/「醜」を見出すか。 それは「自分」を晒け出すことにほかならない。


…という思いで僕は映画を作っている。

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