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  • 執筆者の写真SATO Takayuki

車椅子と階段

炒めた腰というか背中がキツイので、今日は何処へも行かず自室で動画ファイルのキャプチャとHP作成などの作業に充てる。

ナシテ腰を炒めたかというと、おととい自由が丘で開催されてる友人の二人展を覗いたからだ。

ナシテ展覧会に行ったくらいで腰を炒めるかというと、予定外のことがあったから。

その会場で何も買わず、作品を見ているフリをしながら差入れのバームクーヘンやら金柑やら煎餅を食っていたら、作家のH氏が携帯に向かって「えっ、来んの!?わかった、南口に着いたら電話して。迎えに行くから!」と大声で叫んで電話を切るや、「いや、参ったなぁ。車椅子、ここ上がるかなぁ。電動だし200キロくらいあるよ…」

作家Y氏「バカ、200キロもあるかよ。だいたい電話なんだからそんな大声でしゃべんなよ!」

作家H氏「150キロ、いや、100キロはあるよ」

作家Y氏「せっかく来てくれるんだから頑張ってあげるしかないだろ」

それを聞いていたワシは、にわかにアドレナリンが身体のどこからか湧き出てくるのを感じた。

ここ半年ほど障害を持つ人との付き合いが多いワシは、いつのまにか「電動車椅子」と聞いただけで闘志が湧くようになっていた。

いいよ、俺も手伝うよ。とは言ったものの会場は3階、雑居ビルの階段は幅1メートルあるかないかの一直線。

うーん、腰痛ベルトしてくるんだった…。

ちゅうか、そんな重量級なら大人3人でも無理だろ。

やがて彼はやって来た。チャランケ祭で一度話したことがある。

ここでワシが「あの、オレちょっと大井町に人を待たせてるから…」などと行ってしまっては後で何を言われるかわからない。腰の骨も折れよ!だ。

ところが彼が乗っていた車椅子は、なんとYAMAHAの簡易電動で折りたためるやつ。なにが200キロだよ、これならバッテリー外せば30キロもないだろう。拍子抜けしてしまった。

彼は「おいH、ちょっと腕を貸せよ、俺はこの手摺でなんとか上がるからよ!で、上がってから動けないから、Y、車椅子上げてくれよ!バッテリー抜いて折りたたんでよう!」

といかにもウチナンチュらしく、威勢がいい。それにH氏に負けない大声だ。

「おお、わかるか?黄色いレバーあげると手動で動くからよ!」

「大丈夫だよ、俺このタイプ慣れてるから」

なるべく彼に遅れないように、Y氏とふたりでえっちらおっちら車椅子をあげる。

Y氏「なんだよ、もう息上がってんじゃん」

ワシ「うるさいよ、上持つ方がキツイんだよ」

で、車椅子を広げるや彼はドッカと座り込んだ。

「おい、大丈夫か?バッテリー入ってっか?レバーは両方下がってっか?」

と、まったく悪びれない。

思えば、「悪いねぇ」だの「無理しないでね」だの「ありがとうございます」だのの言葉がない。

いや、あったのかもしれないが、そういう感じではなかった。

それがワシには逆に新鮮で、考えさせられた。

つまり、障害者が健常者と同じ場所に出入りすることが当然の権利だとすれば、そこに感謝の言葉は必ずしも必要ではない、「当然」なことなのだから。

無論、感謝の気持ちを述べたほうが互いに気持ちがいいはずだが、それもあまりに過剰だと却って気がひける。

障害者だからといって、必ずそういう引け目を持つ必要もないだろうし、感謝の気持ちがあるにしても人それぞれの伝え方があるはずだ。

実際、彼の態度はその時のワシにとってはまったく嫌味でなかったし、むしろ清々しくらいだった。

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